おろかな睡眠不足

好きな漫画やアニメやゲームの感想だったり推薦だったりを語彙力なく語ります

『魔法少女育成計画』を鬱々と読んでいる

※この文章は、この作品の本質には触れますが、誰が死ぬとかどのお嬢が悪いとかは一切明記しないので安心ですよ!

でも推しは全員死にました。そのため今は数字の人とか生きている人を推しています。支離滅裂。

 

 

魔法少女育成計画 (このライトノベルがすごい! 文庫)

魔法少女育成計画 (このライトノベルがすごい! 文庫)

 

 

 

魔法少女育成計画、少しずつ少しずつ薄目に読み続けてJOKERSまで来ました。来てしまった、というべきなのか、もう何も分からない。私の読書にすら正義があるのかないのかとか考えてしまう。意味が分からないけれど私が観測しなければ彼女たちは生きていられたのでは…などと考えてしまうわけです。しんどいですね。

 

つらいね私。次はACESだ。

 

(あらすじにもならない:魔法少女が殺し合うよ。大体死ぬよ)

 

作品について

遠藤浅蜊作『魔法少女育成計画』から連なるまほいく*1シリーズは、多種多様な魔法少女達がのっぴきならない事情——もしくは思惑通り――により殺し合いをする、ダーク・サバイバルアクションです。イラストを担当されているマルイノ先生の絵がゆるふわほわほわとしているため、表紙買いトラップが十全に機能…機能し続けていますし、アニメ化の際には騙された人も多かったんじゃないかなぁと思います。ズルいよな。いやホントずるい。

 

この作品において、魔法少女は才能をもつ者のみがなれる、特別な存在です。魔法の国から力を授かることで、スペシャルな能力を持った、この世のものとは思えない美少女に変身することが出来ます。一人一つずつの特殊な能力と、人間を遥かに越えたパワーとフィジカルを得て、困った人を助けるのが魔法少女の使命です。ここまでニチアサ版。能力固定のプリキュア……の方が印象としては合ってるの……かな?
が、です。能力如何で振れ幅はあれど、同じ魔法少女同士ならば互いを傷つけあうことが可能であり――一定以上を超えるパワーや攻撃によるダメージを受ければ、その体は人と同じように壊れます。それはもうあっけなく、血をまき散らし臓物を飛ばし、首が転がり足はちぎれ。意識がなくなれば変身も解けます。そうすればそこには、無謀に無残に無意味にずたずたにされた少女が一人、無造作にごろりと転がるわけです。…そもそも、死体すら残らないことだってあるし。それゆえ戦闘描写は、自然、生と死をかけた、血沸き肉躍る少年漫画もかくやというものになりがちです。淡々とした語り口がそれを余計に引き立てる。熱い。そして痛い。つらい。

 

基本的に世界観とキャラクターはサブタイトルの作品ごとに独立しており、各作品ごとの生き延びた数人のキャラクターと、バックにいる『魔法の国』というろくでもない機関のみが共通して出演します。その世界観の違いも、結局根本は魔法の国によるものだったり魔法少女の仕業だったりと、タネを明かせば共通点しかなかった~なんてこともざらです。ほんとゴミで満ちている。プライドと上下関係に支配され、内部抗争や対立、不正も横行する公的機関の如き魔法の国の俗っぽさと、魔法少女という非現実のミスマッチがホント酷いです。しかしそれは魔法少女の世界観が、現実の上で成り立っているという証左でもあります。現実は決して揺るがないことを示します。それが救いになるのかは後述で。

 

『現実』 

そんなまほいくにおいて私が一番好きで苦手な部分は、いうなれば『すべての魔法少女は確かに生きていたのだ』というところ。どんなに早く死ぬ魔法少女であれ、彼女たちが何を思い何を見て何を背負い、誰と共に暮らしているのか――暮らしていたのかを、作者の遠藤先生は必ず本の中に書き記します。そこに差はあれど、少なくとも、『こういう道のりを歩んできて、だから今ここに魔法少女として立っていて、これから彼女はこうしていきたいんだ』と明確に分かるくらいには、作中のキャラとの会話を通して、戦いの中の成長を通して、独白を通して、回想を通して、彼女たち一人一人のパーソナルを紹介してくれます。いやというほど淡々と、どれだけのクズもどれだけの聖人もどれだけの凡人も、ひとしく。ひとしく描いて、そして死にます。

みんなみんな死ぬ。述べられたそこにどれほど痛烈な願いがあっても、どれだけ渇望する未来があっても、どれだけ死に恐怖を抱いていても、ばっさりと。死にます。強者が弱者に、弱者が強者に。ライバルが敵に、友達が味方に。みんなのっぴきならない事情で、もしくは享楽的に刃を向けて、そして死にます。死亡フラグなんて論議するだけ無駄です。死は平等で不条理なものです。

そう、先述した通り――だってこのファンタジーの世界観で、根幹を這うのは現実というシビアで容赦のない、あまりに冷徹な観念ですから。フラグなんて都合のいいそんなもの、現実には存在しないんですから。死ぬときは死ぬし、生きてるときは生きてる。もう本当に、そういう、それが、つらい…。現実なんて嫌い…。

 

遠藤先生はインタビュー*2でこう述べています。

「禁じ手ナシ」という感じが好きなんです。少女だから守られている……特定のだれかにというわけではなく、物語の見えない部分に「少女はひどい目にあわないだろう」という「お約束」があるようなのは好きじゃないというか。そういうものをとっぱらって、少女でもひどい目にあうし、主人公というか、人物視点であっても死ぬか生きるかわからない。そういうタブーのない感じの作品が書きたい。読者をびっくりさせたり、おどろかせたりしたいという気持ちが、作品を書く時の根底にありますね。

びっくりは好きだけど!好きだしびっくりするけど!サプライズは!嬉しいのがいいよね!!!!

 

現実は、死以外にも、魔法少女の背景に分かりやすく現れます。

魔法少女はあくまでこの現実を生きるものが変身しているので、変身できたことは無条件に幸福や願い事の成就にはつながりません。魔法少女になっても変わらない人生に嫌気がさしたり、魔法の力に頼り切ることで身を持ち崩したり、活動していくうえで現実の職と折り合いをつけなくてはならなかったり、逆に能力のせいで不幸になったり。もたらすものは千差万別です。そこには夢も希望もなく、年を重ねた魔法少女程、魔法の国に雇われていればなおのこと、魔法少女としての姿勢にはOLのような倦怠感がにじみます。

個人的に、SFと呼んでもいいのかもしれないな、と思います。現実という要素に魔法少女を溶かし込むのがとてもうまいんです。うますぎて、だから常に何が起こるかわからない。先が読めない。誰が死ぬのか、どこに行きつくのか、何が待ち受けるのか――それが気になって、だから読み進めてしまう。怖い以上に先が知りたくなる。

 

進め方も憎いです。語り部は、務める登場人物誰かの視点が短いスパンで切り替わって進んでいきます。その為、いったい作中で何が起きているのか、読者すら全容を知るためにはその人間の視点からの文を読むか、もしくは登場人物と共に解き明かす他ありません。勿論、視点固定の罠として、そのキャラクターの思い込みで読者側まで惑わされたり、死亡したために大事な所が分からないままだったり、逆に認識したことを思い返さず、重要な場面をあえて飛ばして描かれていたり━━などなど。全部が終わってから読み返すと、なるほどここがミスリードだったのか、等と魔法少女を襲った理不尽に対してキレながら改めて把握することができます。何度読んでも楽しめる。いえーい!死に際百回読んでも大丈夫なわけねーだろ!

 

などとまあ述べましたが読んでもらうのが一番ですね。

さああなたも地獄楽しい魔法少女たちの活動をのぞいてみませんかぽん?

*1:公式略称。響きはかわいいのに……

*2: http://konomanga.jp/interview/77067-2